終わりを遅らせる

先週の半ばあたりに突然体が動かなくなった。仕方がないので仕事を休んでずっと寝ていた。

それ以前から悪夢をみて動悸で目が覚めたり、日中もひどい頭痛や肩こりに悩まされていたりして、「あれっちょっとヤバいな」という気配は察知していたのだが、金銭的な余裕のなさや自分をケアする作業の億劫さなどから見て見ぬふりをしていた。自業自得でしかない。

寝ている間、もう二度と動けないかもしれない、働けないかもしれないというおもいに囚われた。うつが悪化するといつもこうなるので、いい加減予防やら対策やらできていてもいいものなのに、毎度深刻に同じような不安に襲われている。

今回は結局1週間ほど寝込んだ。その間散歩をしたり、人と会ってもらったりして、少しずつ頭も回るようになってきたけれど、自分の心身の衰えをしみじみと感じてしまって、「いつになったら終わるのだろう」とおもうことが増えた。

終わらせようとおもえばいつでも終わらせることができるわけでもなさそうだから、これからわたしにとって、生きるということは「終わりを遅らせること」になるのだろう。

いつか終わりが来るけれど、それは今じゃない。生きることも、働くことも、自分と誰かの関係も。これまでは衝動的に仕事や人間とのつながりを絶ってしまうことが多くて、近い将来でさえ自分がどんな選択をするのか想像もつかなかった。その「分からなさ」は今でも変わっていないのだが、心境には少し変化がある。変わることに、新しいことに疲れてしまったのかもしれないし、今の自分(と、自分を自分たらしめてくれている環境や人々)に愛着があるからかもしれない。

できる限り、少しずつ終わりを遅らせていく。今日もわたしは一日、わたしの終わりを遅らせたーーよく生きた。

わたしをいい人にさせないでほしい

さほど親しくない知人に「いい人だよね」と褒められる機会がそこそこあるのだが、わたしの正体は悪魔なので気を付けてほしい。というか、わたしをいい人にさせないでほしい。

わたしはこう見えて特別人と話すことが好きなわけじゃないし、笑っていても人の話を楽しんで聞いているわけでもないし、待ち合わせ場所や時間を決めるのが得意なわけでもないし、行きたいお店をいつも自分で提案したいわけでもない。

わたしがそういうことをするいい人になってしまうのは、いい人であることを求められたからであって、わたしは根っからのいい人ではない。

ひょっとしたら「いい人であることを求められた」というのはわたしの勘違いで、ほんとうは誰もわたしにそんなこと求めていないのかもしれないけれど、そんな風におもっているとしぬまでいい人をやってしまう気がするので、今回はあえて強気な態度で臨んでみよう。

わたしをいい人にさせないでほしい。わたしをいい人にさせる他人、わたしをいい人にさせる集団、わたしをいい人にさせる環境から、わたしは逃走する。でもいかんせん足が遅いので、どうかお願いです。誰に、あるいは何にお願いしているのかさっぱりわからないが、どうかわたしをいい人にさせないでほしい。

わたしの正体は自由を愛する悪魔なのである。地獄に来た人間を踏み潰すこと、自分の正体を見破れない地上の人間を笑うこと、美味い飯をたらふく食うことが生きがいだ。わたしはわたしを悪魔でいさせてくれる人間たち、あるいはその振りをしている愛すべき生きものたちとともにある。

待つ

ずっと待っている。でも自分が待っているものはいくら待っても来ないものであるということを知っている。なぜならわたしは別に何も待っていないからだ。何も待っていないというのは語弊があるかもしれない。一応待ってはいる。ただ、待っている「対象」ーーいわば「待たれるもの」がないのである。

テレビ番組、好きな配信者の動画、友人との約束、アイドルグループの公演、そういったもろもろのイベントもわたしに待たれてはいない。もちろん楽しみにはしている。特に友人との約束は、わたしが今生きていることを感じられる数少ない現実のひとつで、わたしがこの生から滑り落ちそうになっているのを食い止めてくれているくさびなのだが、しかし、わたしはそれらを待っているわけではない。

わたしは何も待っていない。その日一日のやることがなくなって、布団に横になる。腰がいたいので仰向けの体勢がつらく、抱き枕を足に挟んで横向きになる。目をつむる。そしてわたしは待つ。何も来ないことはわかっている、だってわたしに待たれているものは何もないのだから。それでもわたしは待つ。ずっと待ち続けている。きっとこれからも気の遠くなるような時間待ち続けている。

知らね~よの勇気

他人の言葉、他人の感情や考えを受け止めることが実はかなり大変な作業であることは意外と知られていない。ただ、直接このことを話題に出せば「そりゃそうだよね」と多くの人が「他人の考えや感情を受け止める大変さ」を理解しているような反応を示すだろう。だからこそ人間同士はしばしば厄介で面倒な込み入った事態に陥ってしまうのだとおもう。

みんな分かっているようで分かっていないし、というかわたしも分かっているようで分かっていないのだが、他人が発した言葉には基本的に棘があって、それは発した者の悪意の有無に関わらず言葉のどこかに隠れていて、聞き手をちくりと刺激する。触れようとした者の指をさす植物の棘とそっくりなので、ここでは仮に棘ということにした。

その棘はたとえ言葉の意味内容がポジティブで好意的なものであっても存在している。言葉でやり取りをする限りわたしやわたし以外の人間たちは「言葉で他人を傷つける」「言葉で他人に傷つけられる」リスクから永遠に逃れることからできないが、言葉を使わなくても他人を傷つけたり他人に傷つけられたりする方法は無数にあるので、何をことさらナイーブになる必要があるのかといわれればそうかもしれない。

ただ、この現状である。未曾有のパンデミックで自由に行動することがままならない状況で、これまで以上にコミュニケーションの方法が言葉に偏っている。したがって自然と言葉によって傷つき、傷つけられる頻度も増えてくるわけで、もううんざりだと感じている人もなかにはいるだろう(わたしみたいに)。

ひとつひとつの言葉の棘は大したことのないしろものである場合も多く、一度で再起不能になることは稀かもしれないが、積み重なるダメージを馬鹿にしてはいけない。

友人から「何してる?」という連絡が届き、「アニメみてるよ」と他愛のない返答をすると新しい家族ができたという先方の喜ばしい近況が語られ、わたしは「知らね~よ」の一言を飲み込んで「そうなんだ、良かったね」と適当にいなし、また別の知人から「●●さんと●●さん付き合ってるらしいよ」という他人の恋愛事情の報告が届き、「知らね~よ」というのをこらえ「全然気づかなかった~」と返すと「でも前会ったときボディータッチしてた!長続きしなさそうだけどね」という返事がきてスマホを置き、横になって本を読んでいると「食っちゃ寝で良いご身分ね。妊婦さんみたいな体型して、子どもはいつ頃出てくるんだか」と母ににやにやとイヤミをいわれ、無視していると父への愚痴が始まり、「知らね~よ」という気力もなく寝返りをうって目をつむる。

他人の言葉を受け止めないこと、受け止めるものと受け止めないものを適切に判別し選択することはとても難しいことだ。自分の心から相手の言葉をしめだす「知らね~よ」の勇気がほしい。

人間関係焼畑農業

7月を過ぎたあたりからどうも調子がおかしくて(といっても就職してから調子が良かったためしはあまりないのだが)、変なやからにつけこまれたり、あるいは自らその懐に飛び込んでいってしまったりすることが多かったので、おもいきって人間関係の断捨離をした。

この言葉の初出が人生のどの時点だったかさだかにはおもいだせないが、いわゆる「人間関係焼畑農業」である。断捨離というと単に不要なものを捨てるだけのように聞こえるが、焼畑というと古い畑を燃やして新しい作物を育てようとする前向きな気概が感じられてよい。ということにしている。

大抵の場合わたしにそのようなポジティブな意志はなく、火を放つときは「全員ころす」という恨みがましい気持ちでいっぱいになっているのだが、不思議なものでしばらく時間がたつとまた新しい人間関係が生まれているので、結果的に焼畑は成功しているのかもしれない。

前回の焼畑農業は主に趣味(ゲームやアイドル)を通じて知り合った人間たちが対象となった。自分自身の体調が悪化して趣味を楽しむ余裕がなくなったことが大きな原因だが、他人との関係に疲れて趣味を楽しむ余裕がなくなったのだということもできるだろう。

自分でいうのもなんだがわたしは人当たりの良いフリをするのがなかなか上手い。「面白くて陽気なお姉ちゃん」キャラでそこそこ輪に馴染むこともできるのだが、いかんせん実態は神経質で陰気なバケモノなので人前に出るのは疲れるのである。神経質で陰気な本性を隠さずにいれば良いのかもしれないが、そういう立ち振舞いをして他者に配慮を強いる方がストレスに感じる厄介なたちなのだ。気を遣われていることを感じながら人間と接している時間ほど気まずいものはない、といいながら自分は気を遣っていないと落ち着かないのだから、矛盾している。

とはいえ完全に気を遣われないことも完全に気を遣わないことも他人と関係する以上無理なはなしだ。だとしたら少しでも自分がストレスを感じる場面を減らした方がいい。というわけで焼畑を実行したのである。そしておそらくまた新たな人間と出会うことになる。人間のこと自体はそこまで嫌いではない。ただ直接関係しようとするとひどく疲れてしまうだけなのだ。

さすがに何度も同じ失敗を繰り返しすぎているから、いい加減今度は人間関係を無茶に広げるのはよそうとおもうのだが、焼畑はやめられない気がしている。というか、やめる必要はないかもしれない。切りたくても切れない人間関係もたくさんあるけれど、切ろうと思えばいつでも切れる人間関係もあるので、一度始めたものでも終わらせることができるという考えを常に持っていることは、わたしのような人間にとっては救いになるのだ。

わたしを眠らせてくれるのは次の日わたしを起きられなくする薬

このタイトルを書いたときにふと「あれ、江國香織のこんな感じの小説あったよな」というのが頭をよぎった。なんだっけ、号泣する準備ができているやつだけじゃなくて、きらきらひかっている感じのでもなくて、あったぶん泳ぐのに安全でも適切でもない小説だ! と思い当たったはいいものの、『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』って泳ぐのに安全じゃない環境が泳ぐのに適切な環境なわけないだろ、ふざけたタイトルをつけやがってと「クソリプ」を送りたい気持ちに全身が支配されてしまった。

江國香織の小説を好んで読んでいたと表明するのはたいそう恥ずべきことだとわたしは感じているがわたしは江國香織の小説を好んで読んでいた時期がある」旨の発言を友人に対してもインターネット上でも何回か繰り返してきたが、その考えは今も変わっていない。

わたしが江國香織作品の何にムカついているかというと、まあかつて好きだったがゆえにいろいろな感情をこじらせているのだが、たとえば「江國香織ほど『誰もが憧れそうだけど実際そんな恋愛はしたくはないという恋愛、どこかにありそうだけど絶対にどこにもない恋愛』を書くのが上手い作家はいないのに女性同士の恋愛を書くときだけ『本当はダメだと分かっているしいつか終わりになると諦めている刹那的な関係というテンプレートな駄作』を出しやがって」という点などにひどく腹を立てている。

こんなのはよくあることで、日本語で書かれた小説で自分の好きな同性同士の物語に出会えることの方が少ないのだが、わたしは江國香織の「誰がこんな恋愛したいと思うんだよウケる」「でも世の中にどっかにはこんな恋愛してる人たちいそう」「いやいやね~よ中谷美紀の顔面尾テディベア作家と大森南朋風の会社員の夫婦がW不倫してることとかあるかよ」と突っ込みたくなるような部分を憎みつつも愛してきたのだとおもう(同様のこだわりは長野まゆみ作品に対してもいえることだが、それを書き始めるともはや日記ではなくなってしまうのでおいておく。しかしすでに日記の体裁をなしていない気もする)。

しかし江國香織の小説は以前引っ越しをしたときに一冊を覗いて処分してしまった。その一冊を覗いて母が全く同じコレクションを持っているからである。

その母に今日の昼間「あんたいつまで寝てんの?」と声をかけられてわたしは驚いた。いつまで寝てんのって今日は朝ちゃんと起きれたがな、と反論をしようとして気が付いた。わたしは昼寝をしていたのだ。朝いつも通りの時間に仕事をはじめて、あまりの眠気に耐え切れず30分の休憩をとって仮眠をとるつもりでいたのだが、母に起こされた時点で休憩の打刻をしてから2時間はゆうに過ぎていた。目をつむってから母に起こされるまで一瞬の出来事だった。

恐らく昨夜飲んだ眠り薬のせいだとおもう。今わたしは眠くなる薬を4種類ほど所持していて、1つは食後に飲むもの、もう2つは寝る前に飲むもの、ここまでは医師に処方されたものだがもう1つは個人輸入したよくわからんピンク色のもの(たぶんルネスタ)。調子がいいときは食後に飲むものと寝る前に飲むものAとルネスタで熟睡できるのだが、調子が悪いときは4種類全部飲まないと寝付けない。仮に寝付けたとしてもほぼ寝ていない。体は動かないが脳が起きているような状態で、始終考えごとをしているし、狼に食われる夢とかノコギリのような刃物で腕を切断される夢などをみる。

しかしその4種類をフルコースで飲むと次の日起きていられんのである。朝起きれたとしても昼間に一度満足するまで眠らないと頭がどうにも回らない。自分の意思に反して体が睡眠を求めている。しかし心行くまで寝たとおもっても何故か眠気はとれないし、変な体勢で寝るものだから体が凝ってしょうがないので、仕事をしなくなる。結果、納期に間に合わなくなり会社に内緒で休日に作業をする羽目になる。

すべては自業自得なのだが、一体どうすればいいというのか。医者には通うたびに上手に眠れないと報告して、いくたびにちょっとずつ薬を調整されるが、最初の数日はよくてもしばらくするとどんどん眠れなくなってくる。以前医者に「気分が良くなって不安もすべてなくなって毎日幸せに過ごせて簡単に意識を失える薬がほしい」といったら「それは合法では手に入らないね」と真顔で返され、「でも中上健次の小説とか読んでるとみんなヒロポン打ち放題やがな」とおもいつつ「そうですかあ」と答えたことなどがあった。

呪いの日記

日記って一日の終わりに書くものじゃないの?という気がしないわけではないが、書きたいときに(かつ書けるときに)書いておくにこしたことはないのでひとまず書きはじめておく。今は就業時間中だが、体を横たえないように意識を保っているだけでせいっぱいだし、片手間にちょっとした散文をしたためるぐらいどうってことないだろう。

呪いの日記というタイトルを先につけたはいいが特定の対象を思い浮かべていたわけではない。今日は朝から頭痛と耳鳴りがやまず、1時間ある昼休憩のあいだにちょっと仮眠をとろうとおもったら2時間以上起き上がることができず、夜は外に出て人と話す用事があるのに到底そんな心持ちにはなれず、「全員しんでくれ」という恨めしい気分の矛先をどこに向けたらいいのか分からない。まあ、向けるも何も「全員しんでくれ」という呪いはたぶん自分も含めた森羅万象が対象になっているような気もする。

しかし、「全員しんでくれ」という表現にはいささか語弊があり、より正確を期すならば「わたしの気に入らない者達はわたしも含めて全員しんでくれ」という意味なのだ。わたしの気に入らない者達はこの世の中にあまりにも多すぎる。

精神の均衡のためにできるだけ見聞きしないようにしているが、ひょんなことから政治に関するニュースが視界に飛び込んでくると登場人物全員なるべく苦しんでしんでくれとおもうし、仕事やプライベートで不本意ながら関係をもたざるを得ない人間たちに対しても考えうる限りもっともみじめな死に方をすればいいと感じたりもする。

人間に対する気に入らないとか嫌いとかいった自分の感情の激しさに驚くこともあるが、本来自分は感情的な(高校生の頃などは覚えたての言葉を使いたくて文通相手に自分の性格を「直情径行なところがある」と説明していた、痛すぎる)人間なのだということを思い出すのは割に重要なことで、わたしには自分の感情を抑圧する傾向がややあるので、こうして文字に書き起こして自分の気持ちを思い出す作業はある種のセラピーになっているのかもしれないし、むしろ逆効果なのかもしれない。

不特定多数の対象に苦しんでしんでほしいとおもっている感情を書き起こす行為がセラピーになりうるのか。まあそれはいいとして、昨日は判断能力を失って一挙に数万分の衣服を購入してしまった。今期の流行りだとかいうよく分からないデザイン(勢いで買っているので細部をまったく覚えない)のワンピースと、「HELL」という風船を持ったクマがあしらわれたTシャツと、男物のちゃらちゃらしたズボン(洋服を形容する語彙がマジでねえ)と、その他につまらないものをいくつか買った。届いたらたぶん覚えのないものも混じっているとおもう。

一カ月に一度くらいこのような不可解な購買行動に出てしまうことがある。絶対に必要なわけではない(なくても困らない)商品にお金を使うことで自分にもまだ欲望があるのだと確かめたいのだ。お金に余裕があるわけでもないのに。一晩あけたら惨めな気持ちになることはわかっているのに。こういう自分が心底嫌いだし、お金を使うことがなんらかの承認やステータスにつながるような仕組みそのものが本当に呪わしいとおもう。ここから外に出られないことはわかっているので、今日は帰ったらたっぷり眠ることにする。