知らね~よの勇気

他人の言葉、他人の感情や考えを受け止めることが実はかなり大変な作業であることは意外と知られていない。ただ、直接このことを話題に出せば「そりゃそうだよね」と多くの人が「他人の考えや感情を受け止める大変さ」を理解しているような反応を示すだろう。だからこそ人間同士はしばしば厄介で面倒な込み入った事態に陥ってしまうのだとおもう。

みんな分かっているようで分かっていないし、というかわたしも分かっているようで分かっていないのだが、他人が発した言葉には基本的に棘があって、それは発した者の悪意の有無に関わらず言葉のどこかに隠れていて、聞き手をちくりと刺激する。触れようとした者の指をさす植物の棘とそっくりなので、ここでは仮に棘ということにした。

その棘はたとえ言葉の意味内容がポジティブで好意的なものであっても存在している。言葉でやり取りをする限りわたしやわたし以外の人間たちは「言葉で他人を傷つける」「言葉で他人に傷つけられる」リスクから永遠に逃れることからできないが、言葉を使わなくても他人を傷つけたり他人に傷つけられたりする方法は無数にあるので、何をことさらナイーブになる必要があるのかといわれればそうかもしれない。

ただ、この現状である。未曾有のパンデミックで自由に行動することがままならない状況で、これまで以上にコミュニケーションの方法が言葉に偏っている。したがって自然と言葉によって傷つき、傷つけられる頻度も増えてくるわけで、もううんざりだと感じている人もなかにはいるだろう(わたしみたいに)。

ひとつひとつの言葉の棘は大したことのないしろものである場合も多く、一度で再起不能になることは稀かもしれないが、積み重なるダメージを馬鹿にしてはいけない。

友人から「何してる?」という連絡が届き、「アニメみてるよ」と他愛のない返答をすると新しい家族ができたという先方の喜ばしい近況が語られ、わたしは「知らね~よ」の一言を飲み込んで「そうなんだ、良かったね」と適当にいなし、また別の知人から「●●さんと●●さん付き合ってるらしいよ」という他人の恋愛事情の報告が届き、「知らね~よ」というのをこらえ「全然気づかなかった~」と返すと「でも前会ったときボディータッチしてた!長続きしなさそうだけどね」という返事がきてスマホを置き、横になって本を読んでいると「食っちゃ寝で良いご身分ね。妊婦さんみたいな体型して、子どもはいつ頃出てくるんだか」と母ににやにやとイヤミをいわれ、無視していると父への愚痴が始まり、「知らね~よ」という気力もなく寝返りをうって目をつむる。

他人の言葉を受け止めないこと、受け止めるものと受け止めないものを適切に判別し選択することはとても難しいことだ。自分の心から相手の言葉をしめだす「知らね~よ」の勇気がほしい。