なんでもないことを言う

一日一回なんでもないことを言います。今日あったかかったね。

物心ついたときにはすでに何かの「オタク」だったので(自分が「オタク」をしていた一番ふるい記憶はウルトラマンに登場するキャラクターの相関関係を聞かれてもいないのに祖母に熱弁していた場面である)、何かを話そうとしたり何かを書こうとしたりするときには常に確固として「語りたい対象」があって、だから「明日から雨らしいよ」とか「今日の給食揚げパンだってさ」といったようななんでもないことを言うのがすこぶる苦手だった。

苦手というか、そういう会話には意味がないと思っていたので、天気の話ばかりしている同級生のことも給食のおかわりばかり気にしている同級生のこともつまらないやつだと内心激しく見下していた。しかしわたしなんかよりそういう同級生たちの方がよほど毎日を楽しそうに過ごしていて、納得がいかないと感じたのをおぼえている。

わたしには休憩時間の遊び相手もいなかったので、クラスメートがドッジボールに興じるにぎやかな声に顔をしかめながら、校庭のすみのベンチにひとり腰かけて星座図鑑やダレンシャンなどに読みふけっていた。一見物静かで手がかからなそうに見えるがその実たいへん気難しい子どもで、周囲のおとなたちを散々困らせていたような気がする。

そういう子ども時代を過ごした人間がどういうおとなになるかというと、こういうおとなになるわけで、労働や課金生活に疲れて「オタク」的活動をやめるとなったとき話すべきことがなくなる。語りたい、語らずにはいられないと感じるほど熱烈に入れ込む対象もなく、ぼんやりとさまざまな創作物を読み流し、聞き流し、そういう風に過ごしていると、かつての自分が軽蔑していたはずのなんでもない会話が、急にいとおしく思えてくる。

今日寒いねとか、あの花きれいに咲いてるねとか、そういう言葉は共通の趣味や思想を持っていない他人とも交わすことができるもので、趣味や思想を特定の人間と分かち合あうとすることに疲れてしまった今、その手のなんでもない言葉にびっくりするくらい癒される。これまでは無駄だと思っていたし、言うまでもないと切り捨ててきた現実を、言葉にして投げ掛けると意外に反応があって、なんでもない会話がなんでもなく続いたりもし、わたしが30年近く関心を持たず無意味なものだと信じ込んできた事柄はとりもなおさずわたしが生きるわたしの現実そのものだったのかもしれないと思いつきが飛躍する。

そうはいってもなんでもないことをなんでもない風に言うのは難しくて、何かしらの創作物や成果物を通してしかわたしは何かを言うことはできないんじゃないかと自分を追い詰めそうにもなるのだが、何かしらの創作物や成果物を出しても出さなくてもわたしにはわたしの現実があり、なんでもないことを延々とぼやき続けてもいいし続けなくてもいいのだということを忘れてはいけない。