別れたともだちのこと

自分の感情が沸点をこえ、対話しようという意欲や気力、体力が失われたと感じるとき、衝動的にともだちと別れてしまうことがある。数年に一度のペースでそのような機運が高まってしまうタイミングが訪れるので、なんというかこれはもう人格の問題なのだろうなあとおもう。

頭に血がのぼる、というのとも違うのだが、そうなるともう「別れるしかない」「わたしたちはもう終わりだ」という考えにとらわれて冷静な判断ができなくなる。振り返ってみるとどうして自分がそこまで追い詰められた気持ちになっていたのかは分からない、ということばかりで、当時は「絶対に許せない」とおもっていたはずの相手も、今は「なつかしいかつてのともだち」だ。ずいぶん手前勝手な話ではある。

なつかしいかつてのともだち、といってぼんやりと頭に浮かぶの幾人かの顔、なぜ自分と彼女たちがうまくいかなかったかといえば、たぶんわたしがうそばかりついていたからで、さっき自分が追い詰められた気持ちになっていた理由は分からないと書いたばかりだけれど、それもひとつのうそに違いない。

本当は場をとりしきるのもみんなの予定を調整するのもお店を決めるのも特別好きじゃなかったけれどいい顔をしたくて好きなふりをしてしまったし、結婚するつもりは毛頭ないのに自分の考えや立場を打ち明けるのが億劫でなんとなく話を合わせてしまったし、自分自身面倒でしょうがないと感じているルールを他人に課すような真似をしてしまったし、説明しようとすると言葉に詰まってしまうのだが、恐らく自分のおもう「いいこちゃん」でいなければと自縄自縛の状態になり、ひとりでパンクしてあたふたしていたのだとおもう。

本当におもっていることを言葉にするのはいまでも難しい。自分が何を思っているのかもいまいちよく分からないので、困ると「いいこちゃんならこのような場面ではこのような発言をするべき」というふうに「いいこちゃん」らしい言動をとろうとしてしまう。なんでこんなややこしい思考が定着してしまったんだろうかとおもうけれど、家庭環境や以前の勤め先でたたきこまれた「社会常識」なるものの影響はあるのかもしれない。なので、最近はすこしずつだがなるべく素直におもったことを言う練習をしている。どんなにくだらないことでも良いから、他人にどう思われるかを気にせず言葉を発してみようとしている。

もし、そんなささやかな試みをしているさなかの自分となつかしいかつてのともだちが会うことがあれば、どんな会話をするのだろうと想像したりもする。つまらない人間になったとおもわれるかもしれないし、もう二度と言葉を交わしたくなかったと憎悪を向けられるかもしれないし、一度ダメになった(ダメにした)人間関係が元通りになることなんてないのかもしれず、なのにこんな他愛のない妄想をしてしまうのは、なつかしいかつてのともだちの生活が、当たり前だが、自分と別れた後も連綿と続いていることにしみじみと感動してしまうからだ。

別れたともだちとわたしはもともと違う人間で、完璧にわかりあうことなどできず、たまたまともに過ごす時間がいくらかあっただけで、別れたところでそれぞれに淡々と別の作業をして暮らしており、言葉にしてみるとそれが一体なんだという感じなんだけれど、別れてからはじめて「ああ、別々の人間で良かった」と不思議な安堵を覚えたのだった。

別れるまでもなく、友達とも、どんな関係性の他人ともわたしは違う人間で、わたしはわたしにしかなりえないのだから、そういう孤独を忘れないようにしたい。どんな親密さにおいても。別れたともだちは、その点においてみんな孤独だった。わたしひとり、甘えていたのだとおもう。