書かないと消える

「何かをずっと書き続けていないとわたしは消えてしまうのではないか」という強迫観念とずっと闘っています。

人生の序盤(正確にいうとインターネットの片隅で何かを発信しはじめたとき)からその萌芽はあり、この子とはもうずいぶんと長い付き合いになるね。

「書かないと消えちゃう」にはいろいろな意味があるのだが、ざっくり分解してみるとこんな感じかな。

「わたしには書くぐらしいしかできることがない」
「ずっと何かを書き続けていないと忘れられてしまう」
「書く以外に自分の存在を証明するものがない」

並べてみるとなんとも痛々しい。でも、わたしが生き延びるためには書くことが必要だったし、それをぶちまける場としてのインターネットが必要だった。

だって誰もわたしを分かってくれなかったもの。わたしは透明人間だった、それかよくてバイ菌だった。不思議なもので、普段は透明だったり菌だったりするのに、攻撃するときは対象としてしっかり視認され捉えられるのだ。行方不明の上履き、びりびりに裂かれた音楽の教科書、財布からなくなっていたお金。

だからわたしには書くことしかなかった。「書かないと消えちゃう」は歳を重ねるにつれわたしのなかで大きくなり、高校生のときはmixiで知り合った得体の知れぬお姉さんとサイゼリヤにいったり、同じく得体の知れぬお兄さんにまんだらけで18禁のBL同人誌を買ってもらったりしていた。

そんなことができたのもわたしが「書いていた」からだ。「わたしはここにいる」と、学校でも家でも半透明の存在になりかけていたわたしが唯一自分であることが証明できたのは、「書いている」ときだった。

しかし、フルタイムで労働をはじめ、心身のバランスを崩し、書くことがままならなかったときでも、わたしは生きていた。でも、このままだと自分がいなくなる、と体のどこにあるのかもわからなければ名前も機能も定かではない部位が喚き散らしていた。

「おまえはこのままだと消えてしまう!」

結果的にわたしは消えなかった(とおもう)からよかったけれど、ギリギリのところだった。踏みとどまれたのは、わたしが何を書こうが、書くことをやめようが、存在していることを認めてくれた友人たちのおかげだとおもう。

それは一つの転機だった。

わたしは、読み書きをする機会のない人や、読み書きをすることができない人が、「生きている」という現実、何も発信できなくても、何も記録に残せなくても、「そこにいる」という現実とようやく、出会えた気がする。

そして気付いた。

これまでわたしは、ひょっとして、ものすごく不遜で傲慢で差別的な価値観に己を縛りつけていたのではないか?

これは日記に書くにしては少し大がかりなテーマだったかもしれないね。分かっているのになんでこんなことわざわざ書いたかっていうと、わたしは今まさに「書かないと消えちゃう」に押しつぶされそうになっていたから。「書かないと消えちゃう」に負けないために、「書かないと消えちゃう」について書いた。

書かなくても消えないし、語らなくても、描かなくても、写らなくても、わたしは消えないよ。わたしへ。