全然前向きではない一日

わたしは日記を書くのが非常に苦手で、というのもいろいろな理由があるのだが、まず毎日これといった目的のない文章を書き続けられるほどマメじゃないし、その日起きた出来事をありのままに書ける素直さもないし、書き始めてしまった時点で「ありのまま」じゃないだろうと難癖をつけてしまうような性格だし、とにかく日記風の文章を書く作業に向いていなくて、でもそれだと日記風ではないまとまった文章を書かなければと気負ってしまい、気負えば気負うだけ疲れて何も書かなくなってしまい、それでいて何も書かないでいると次第に落ち着きを失い、別に何も書かないでいたっていいんだけれど、何かを書いていた時期の方が長いので、結局こういうくだらない前置きをしなければとりとめのない日記すら書くことができなくなってしまったのである。

ネガティブな言葉を使えば使うほど言葉に引きずられて暗い気持ちになるという話はわりかしよく聞くもので、自分でも自分の書いた文章にとりつかれてしまったようになることがたまにあるので想像はできなくないのだが、そもそも「ネガティブな言葉を使わない」というふうに言葉を選別する過程が疲れるし、「~~をしない」と自分のなかでルールを決めるとそのルールを破ってしまったとき本来であれば生じなかったはずの落ち込みが生じるし、「こんな時代だからこそ前向きにがんばろう」といった言説は意に介さないでいたい。

今日こそは日記を書こうと筆をとったのにまだわたしは起床すらしていないので、さすがにそろそろ起きようとおもう。今朝は定時を1分回った時刻に目が覚め、定時を2分回った時刻に出勤した。朝から耳鳴りがして最悪な気分で、頭もろくに動かないし、とりあえずタスク管理ツールに前日の自分が記録していた作業をとっかかりやすいものから順につぶして、お昼は絶対にやよい軒の唐揚げ定食(※白米をもち麦ごはん変更)にすると決めて休憩をとったのに、近所のやよい軒交通系ICマネーの決済に対応しておらず、家の鍵とSuicaの入ったスマートフォンしか持っていなかったわたしは万事休すで、券売機の前に立ち尽くしてしまったのだが、いま思えば店員に気づかれる前に出るべきだったかもしれない。訝しげに様子をうかがわれ、まあ自意識過剰なだけだったかもしれないのだが、そそくさとやよい軒をあとにして不本意ながら松屋で牛焼肉定食を頼み、なぜ不本意かというと本当は松屋なら豚焼肉定食の方が好みなのだが、やよい軒の唐揚げ定食を食べられなかったショックで自分にとって最善の選択ができなくなっていて、ゴムのような味のする牛肉を機械的に飲み込んで、午後は気の重いミーティングをこなした。先方にまくしたてられるだけで終わった。自分が話さなくていいという意味では楽なのだが、特に興味のない相手から聞く必要のない話を延々と浴びせかけられると気持ちがけば立ってしまう。きっと悪い人ではないのだろうが、悪い人ではないというのは何の免罪符にもならないし、こういうときに「悪い人ではない」と言いたくなってしまうのは相手を責めている自分をかばいたいという無意識によるもので、「めちゃめちゃはなしなげえおばさんだったけど悪い人ではなかった」と相手をフォローしている自分に満足したいだけなのではないか。そう考えると相変わらず自分はいやしい人間だが、なんちゃらなんちゃらとかいう団体を辞任した森とかいう老人を「悪意はなかったんだろう」といった言い回しで擁護している手合いをみるとうんざりするし、話が飛躍してしまったけれど、今日の打ち合わせ相手の中年女性は退屈ではあったが悪質な人間ではないように感じられたのである、森とかいう骨の髄まで権力に毒された悪人とは違って。

やはりおもったとおり全然日記にならない。まだ30分くらいしか時間をつぶせていないのに無駄に1,500文字も書き連ねてしまったが、目をおおい耳をふさぎ何もかも投げ出してしまいたくなるような一日の連続をほんのちょっと切り取ることはできたかもしれなくて、同じように目をおおい耳をふさぎ何もかも投げ出してしまいたくなるような一日を送っているどこかの誰かがこの文章を読んでくれているのだとしたら、わたしはひっそりと喜ぶだろう。