あなたの言っていることが分からない

朝はかろうじて起きることができたものの例によって昼ごろ眠気にたえられず2時間ほど眠ってしまった。いまだに薬との付き合い方がよく分からない。延々と文章を読まされる後味の悪い夢をみてひどい気分で仕事にもどると、わたしが生きている現実もその夢の延長線上にあるようなものだと感じてますます落ち込む。

言語にはうんざりしている。

インターネットの片隅で文章を書いたり人の文章に手を加えたりする仕事を生業とするようになってから一年は経った。仕事で書いたり編集したりする文章は顔の見えない読者に必ず何らかの「意味」を伝えなければならない。何らかの手続きをするためにはこのような書類が必要である、そのためにあなたは今からこのような行動をとる必要がある、もしそれでも不安であればこのような窓口で相談をするとよい、うんぬんといった「意味」である。

それまで趣味で書いていた散文や韻文には必ずしも「意味」がなくともよかった、というより「意味」のないものばかりを書いていた。しかし「意味」のない文章はインターネットの読者に好まれない――というより、「お金にならない」。したがってわたしは日々なんらかの意味や情報を伝えるための文章を書き続けている。それが今のわたしにとって唯一の生きる糧を得る方法だからだ。

しかしわたしは言語にうんざりしている。どのような言語にもうんざりしている。そして言語がお金にかわることにもうんざりしている。もっといえばお金を稼ぐことが何よりだとされる世の中の仕組みにうんざりしている。息が詰まりそうになる。

そうはいってもうんざりしているだけでは生きていけない。「息が詰まりそうになる」と書いたからといって「実際にわたしの息が詰まる」わけではない。言語とは常にそのようなもの――「ようなもの」ではあっても「もの」そのものではないもの。

わたしが言語にうんざりしている理由はたくさんあるが、そのひとつは、あたかも言語が万能であるかのように扱われているから。言語は完全な「意味」たりえない。

読者にこちらの意図した「意味」や「情報」を伝えるための文章をこさえることがわたしの従事している労働の内容だが、だからこそ日々言語が完璧たりえないことを実感する。いくら何かを伝えようとしたところで読者は自分の好きなところだけを好きなように読む。もちろんうまくいけば読者の意思や意欲を誘発することはできる(それが言語の危険な一面のひとつであることは確かだ)が、それはわたしが読者を完璧に、意のままに、操ることができるというわけではない。

わたしの言っていることは分からないだろうか。分からなくていい。わたしにもあなたの言っていることは分からない。

わたしは言語にうんざりしてしまった。お金にもうんざりしてしまった。しかしわたしはあなたの声や、ちょっとした仕草や、表情のかげり、体のふるえ、そういったものにはまだ興味があるかもしれない。むしろそういったものにしか、興味がないともいえるかもしれない。

そうはいいながら、わたしは自分の身体にもうんざりしている。どこかに出口があるわけではない。明日の自分が起きられるかどうかわからないとおもいながら今夜のわたしは寝るのだから。