無題

「選対はタラタラ何やってんの!」
 先ほどまで誰かが吸っていた煙草のけむりをサッと吹き飛ばしてしまいそうな怒声が男ばかりすし詰めになったフロアに響いた。
「新人候補をヒールで街頭立たせてんじゃないわよ! 女性候補者向けの研修会企画しろって言わなかった? 担当者はどこのどいつ!」
 威勢の良い怒鳴り声の主はとある衆議院議員で、ここは彼女の所属する政党の本部である。
 "選対"とは"選挙対策"の略称で、党から出馬する候補者の選定や選挙活動の支援を行う部署だ。国会に設置された委員会の花形ともいわれる予算委員会に所属し、与党の大物相手にも怯まず的確で核心をついた質問をくりだすことで知られるこの代議士は、支持率が右肩下がりの野党に属していながら世間での人気も高かった。

「新人の女性候補は見映えがよくてなんぼだって本部長が……」
 本部長とは同じ党内で選挙関係の取り組みを統括する立場にある某ベテラン議員だ(実務を行うのは一般の事務スタッフだが、高度な政治的判断や他党との交渉は議員が行う必要があるため、本部長や副本部長といった役職には議員が名を連ねている)。
「バカ! タイトスカートであんな高いヒールの靴履いて何時間も立ちっぱでいられるわけないでしょ!」
 あのセクハラクソッタレジジイ、と毒づいてそこいらの空席に荒々しく座り込んだ自らの雇用主を、秘書は静かに見つめている。
「研修会の件忘れていたわけじゃないんですけど、何しろ他にも手のかかる候補者が多くて……」
「へーえ、女性候補は可愛さといじらしさで売ればいいってわけ? それが我が党の"選対"の方針ってわけね」
 今度は"選対"と名指された一帯に目をやる。きまりが悪そうに口をつぐむ男たちは、秘書よりも、彼女の雇用主よりも、歳を重ねている者ばかりだ。"選対"ばかりではない。このフロアには、彼女たちより若いスタッフは数えるほどしかいない。
 あまり居心地の良い場所ではないな、と秘書はもう何度目になるかも分からない感想を抱いた。フロア中の何十もの瞳が彼女たちーーそう、議員だけではなく秘書もまた事務スタッフの"品評"の対象となるーーに注がれている。
 秘書は思わず視線を落としそうになったが、すんでのところで思い止まった。「どんなときでも顔を上げていなさい」という、主人のことばが脳裏に浮かんだのである。

「あのクソジジイにはわたしから後で報告しておくから、とりあえず日程と場所おさえて企画走らせなさい。わたしの日程は後で秘書から連絡させるから」
 困惑するスタッフ達を一瞥もせず、言いたいことだけ言うと議員は席を立ってフロアを後にする。
「日取りは後ほどご連絡します。お忙しいところすみません」
 それが本部へ来て秘書の初めて発した言葉だった。フラットシューズをぺたぺたと引きずるように歩く秘書の後ろ姿に「あれでよくあの女の秘書やれるよ」「相変わらず不気味だな」という嫌味が聞こえよがしに投げかけられる。
 研修会の実施を独断で決めた議員は、腕を組みエレベーターの階数表示を睨み付けていた。秘書は彼女の半歩後ろに立ち、雇い主と沈黙を分かち合う。
「何が"ジェンダー平等"よ」
 コツコツと細いヒールの音を鳴らしてエレベーターに入ると、議員は小さく、しかし十分に怒気のこもった声で呟いた。
「女は見せ物だと思ってやがるくせに」
 秘書はハイヒールを履いてもなお自分より背の低い雇用主が、相槌を求めていないことを知っている。彼女が秘書に何かを求めたことはーー仕事以外の何かを求めたことは一度もなかった。スカートをはけとも、髪を伸ばせとも、化粧をしろとも言われない。唯一議員が秘書に求めたのは「顔を上げている」こと。それだけだった。

「顔を上げていなさい。あなたはわたしに見つけられたのだから」
 秘書の胸には常にその言葉がある。党本部のスタッフとの埒の明かないやり取り、表面的には事務的な手続きを確認しながらも、内実としては秘書同士の権力争いに終始する意味があるかどうかもわからない会合。対外的な活動より、内部の不毛ないがみ合いにからめとられることが秘書には苦痛だった。
 それでも、秘書は顔を上げていなければならない。彼女はとあるデモで雇い主に"発見"された。性暴力被害にあった女性に対するセカンドレイプを抗議するその集まりに、"たまたま"秘書は参加していた。
 というのも、地元の友人で唯一四大に進学した幼馴染みに半ば強制的に連れられて行っただけで、まだ秘書になる前の秘書はそのような"政治的なテーマ"に関心はなかった。一回り歳上のアルバイト先の店長からしぶとく言い寄られ何もかも面倒になり、このままこの男と結婚して他愛のない人生を送るのだとおもっていた。
 しかし、彼女は見つけられてしまったのである。よりにもよって"あの女"に。
 どうして彼女が自分を選んだのか、秘書には分からない。九州の田舎を一人で飛び出して学費を稼ぎながら東大を卒業したような女が、なぜ自分を秘書にしたのか。東大卒の女が大学も出ていない女を連れ回していると「見せ物」にしたかったのか? 考えても答えは出ない。ので、秘書はいつしか考えるのをやめた。
「今日はもう閉店。これからカラオケよ」
 党本部の建物を出ると、議員は秘書の答えを待たず通りで車を呼び止めた。秘書が控え目に頷いた様子を見ることもなく、雇い主は颯爽とタクシーに乗り込んだ。