ためにならない、役に立たない

濃厚接触者の濃厚接触者になっていたのでしばらく外に出ていなかった。

はじめのうちはなんともなかったけれど、日光を浴びず、他人とじかに会って言葉を交わすこともなく、仕事が終わればすぐに布団をかぶって明日になるのを待ち、しかし明日になったとてまた同じ一日が繰り返されるだけなのだから「今日」も「明日」も変わらない、けれどもやはり一秒先でも未来のことはわからない、「明日」のわたしは「今日」のわたしではない、したがって「今日」と「明日」が完全に一致することはありえない、しかしそのためには「明日」のわたしが「今日」のわたしには思いもよらなかった何かをしでかさなければならない、などとくだらないことをぐるぐる考えるとも考えているあいだにわたしはまた一つ歳をとり、内閣総理大臣は右派メディアでつまらないジョークを飛ばし、東京の最低気温が下がった。

こんなこと書いたってなんのためになる? なんの役に立つ?

もちろんなんのためにもならないしなんの役にも立たない。しかし、なんのためにもならないしなんの役にも立たないものが存在していることをどうして「わたしたち」は許せないと感じてしまうのだろう? どうして無駄だと切り捨ててしまうのだろう? どうして怠惰だと責めたくなってしまうのだろう?

今日は久しぶりに急須でお茶をいれた。そうはいっても温度を確かめるものがないのでお湯の加減は適当だ。一応むらす時間だけはきちんとはかった。これは「昨日」のわたしが飲むのを諦めたお茶だ。おいしかった。

急須で茶葉からいれようがティーバッグで楽をしようがペットボトルを買おうがお茶を飲んでいることに変わりない、お金がもらえるわけでも承認欲求が満たされるわけでも友達が増えるわけでも悪夢をみなくなるわけでもない。

それでいいのだとおもう。

でも、なんのためにもならずなんの役にも立たないことはときにわたしを苦しませる。なんのためにもならずなんの役にも立たず意味も価値も評価も置き去りにしてどこかとおくへ行くためには、もうすこしオシャンな急須でも買うべきだろうか。これからわたしに誕生日の贈り物をくれようとしている人は急須をください。生まれてきて良かったとは思わないが死にたいとも感じていないので、「今日」のわたしは。