生きてる資格

父親に「おまえは死んでもいいから」と言われたことを思い出してなんともいえない気分になる。こういう自傷行為はよくない。分かってはいるものの、自分がそのことばに怒り傷つきむなしさを感じた事実は、書き残しておいた方がよいかもしれないとおもった。

わたしがいわゆる濃厚接触者の濃厚接触者になったとき、同居家族の一部は自宅ではない場所に各々避難した。詳細な状況は割愛するが、とにかくわたしはさまざまな理由が重なってウィルスが存在している可能性のある自宅に留まることになったのだった。

そのとき、父に「まあおまえはいつ死んでもいいから」と笑い半分に言われた。

父のいわんとしていることはなんとなく分かる。

一、わたしはもともとうつ状態で父にとっては生きているのも死んでいるのも変わらないようなありさまだったからである。二、わたしは在宅勤務でかつ重要な商談や打ち合わせなどが控えていない状況だったからである。三、わたしは結婚も出産もしないことを明言しておりどうせ生きていても父の「孫の顔が見たい」という希望を叶えられないからである。

わたしは考えすぎなのかもしれない。三十も間近の子どもを実家から追い出さないというだけでわたしはじゅうぶんに恵まれているともおもう。父はおそらく本心から「死んでもいい」と言ったわけではないだろうし、いざわたしが死ぬことになったらそれなりにかなしむだろう。

しかし父のなかに「命の優先順位」があることははっきりと伝わった。そして、そのランキングにおいてわたしは最下位に位置付けられているようだ。

まあ、父の気持ちは想像できる。でも想像できるからといって納得できるわけでも、笑って流せるわけでもない。女に生まれたわたしに「長男たれ」と望んだ父が、わたしには「生きてる資格」がないと無意識に感じているのは当然といえば当然のことだろう。

さっさとこんな家は出ていけばいい。出ていきたい。たったそれだけのことが今のわたしにはできない。でもそのことでわたしはわたしを責めないようにしたい。今日も一日生きた。