無題

「選対はタラタラ何やってんの!」
 先ほどまで誰かが吸っていた煙草のけむりをサッと吹き飛ばしてしまいそうな怒声が男ばかりすし詰めになったフロアに響いた。
「新人候補をヒールで街頭立たせてんじゃないわよ! 女性候補者向けの研修会企画しろって言わなかった? 担当者はどこのどいつ!」
 威勢の良い怒鳴り声の主はとある衆議院議員で、ここは彼女の所属する政党の本部である。
 "選対"とは"選挙対策"の略称で、党から出馬する候補者の選定や選挙活動の支援を行う部署だ。国会に設置された委員会の花形ともいわれる予算委員会に所属し、与党の大物相手にも怯まず的確で核心をついた質問をくりだすことで知られるこの代議士は、支持率が右肩下がりの野党に属していながら世間での人気も高かった。

「新人の女性候補は見映えがよくてなんぼだって本部長が……」
 本部長とは同じ党内で選挙関係の取り組みを統括する立場にある某ベテラン議員だ(実務を行うのは一般の事務スタッフだが、高度な政治的判断や他党との交渉は議員が行う必要があるため、本部長や副本部長といった役職には議員が名を連ねている)。
「バカ! タイトスカートであんな高いヒールの靴履いて何時間も立ちっぱでいられるわけないでしょ!」
 あのセクハラクソッタレジジイ、と毒づいてそこいらの空席に荒々しく座り込んだ自らの雇用主を、秘書は静かに見つめている。
「研修会の件忘れていたわけじゃないんですけど、何しろ他にも手のかかる候補者が多くて……」
「へーえ、女性候補は可愛さといじらしさで売ればいいってわけ? それが我が党の"選対"の方針ってわけね」
 今度は"選対"と名指された一帯に目をやる。きまりが悪そうに口をつぐむ男たちは、秘書よりも、彼女の雇用主よりも、歳を重ねている者ばかりだ。"選対"ばかりではない。このフロアには、彼女たちより若いスタッフは数えるほどしかいない。
 あまり居心地の良い場所ではないな、と秘書はもう何度目になるかも分からない感想を抱いた。フロア中の何十もの瞳が彼女たちーーそう、議員だけではなく秘書もまた事務スタッフの"品評"の対象となるーーに注がれている。
 秘書は思わず視線を落としそうになったが、すんでのところで思い止まった。「どんなときでも顔を上げていなさい」という、主人のことばが脳裏に浮かんだのである。

「あのクソジジイにはわたしから後で報告しておくから、とりあえず日程と場所おさえて企画走らせなさい。わたしの日程は後で秘書から連絡させるから」
 困惑するスタッフ達を一瞥もせず、言いたいことだけ言うと議員は席を立ってフロアを後にする。
「日取りは後ほどご連絡します。お忙しいところすみません」
 それが本部へ来て秘書の初めて発した言葉だった。フラットシューズをぺたぺたと引きずるように歩く秘書の後ろ姿に「あれでよくあの女の秘書やれるよ」「相変わらず不気味だな」という嫌味が聞こえよがしに投げかけられる。
 研修会の実施を独断で決めた議員は、腕を組みエレベーターの階数表示を睨み付けていた。秘書は彼女の半歩後ろに立ち、雇い主と沈黙を分かち合う。
「何が"ジェンダー平等"よ」
 コツコツと細いヒールの音を鳴らしてエレベーターに入ると、議員は小さく、しかし十分に怒気のこもった声で呟いた。
「女は見せ物だと思ってやがるくせに」
 秘書はハイヒールを履いてもなお自分より背の低い雇用主が、相槌を求めていないことを知っている。彼女が秘書に何かを求めたことはーー仕事以外の何かを求めたことは一度もなかった。スカートをはけとも、髪を伸ばせとも、化粧をしろとも言われない。唯一議員が秘書に求めたのは「顔を上げている」こと。それだけだった。

「顔を上げていなさい。あなたはわたしに見つけられたのだから」
 秘書の胸には常にその言葉がある。党本部のスタッフとの埒の明かないやり取り、表面的には事務的な手続きを確認しながらも、内実としては秘書同士の権力争いに終始する意味があるかどうかもわからない会合。対外的な活動より、内部の不毛ないがみ合いにからめとられることが秘書には苦痛だった。
 それでも、秘書は顔を上げていなければならない。彼女はとあるデモで雇い主に"発見"された。性暴力被害にあった女性に対するセカンドレイプを抗議するその集まりに、"たまたま"秘書は参加していた。
 というのも、地元の友人で唯一四大に進学した幼馴染みに半ば強制的に連れられて行っただけで、まだ秘書になる前の秘書はそのような"政治的なテーマ"に関心はなかった。一回り歳上のアルバイト先の店長からしぶとく言い寄られ何もかも面倒になり、このままこの男と結婚して他愛のない人生を送るのだとおもっていた。
 しかし、彼女は見つけられてしまったのである。よりにもよって"あの女"に。
 どうして彼女が自分を選んだのか、秘書には分からない。九州の田舎を一人で飛び出して学費を稼ぎながら東大を卒業したような女が、なぜ自分を秘書にしたのか。東大卒の女が大学も出ていない女を連れ回していると「見せ物」にしたかったのか? 考えても答えは出ない。ので、秘書はいつしか考えるのをやめた。
「今日はもう閉店。これからカラオケよ」
 党本部の建物を出ると、議員は秘書の答えを待たず通りで車を呼び止めた。秘書が控え目に頷いた様子を見ることもなく、雇い主は颯爽とタクシーに乗り込んだ。

あなたの言っていることが分からない

朝はかろうじて起きることができたものの例によって昼ごろ眠気にたえられず2時間ほど眠ってしまった。いまだに薬との付き合い方がよく分からない。延々と文章を読まされる後味の悪い夢をみてひどい気分で仕事にもどると、わたしが生きている現実もその夢の延長線上にあるようなものだと感じてますます落ち込む。

言語にはうんざりしている。

インターネットの片隅で文章を書いたり人の文章に手を加えたりする仕事を生業とするようになってから一年は経った。仕事で書いたり編集したりする文章は顔の見えない読者に必ず何らかの「意味」を伝えなければならない。何らかの手続きをするためにはこのような書類が必要である、そのためにあなたは今からこのような行動をとる必要がある、もしそれでも不安であればこのような窓口で相談をするとよい、うんぬんといった「意味」である。

それまで趣味で書いていた散文や韻文には必ずしも「意味」がなくともよかった、というより「意味」のないものばかりを書いていた。しかし「意味」のない文章はインターネットの読者に好まれない――というより、「お金にならない」。したがってわたしは日々なんらかの意味や情報を伝えるための文章を書き続けている。それが今のわたしにとって唯一の生きる糧を得る方法だからだ。

しかしわたしは言語にうんざりしている。どのような言語にもうんざりしている。そして言語がお金にかわることにもうんざりしている。もっといえばお金を稼ぐことが何よりだとされる世の中の仕組みにうんざりしている。息が詰まりそうになる。

そうはいってもうんざりしているだけでは生きていけない。「息が詰まりそうになる」と書いたからといって「実際にわたしの息が詰まる」わけではない。言語とは常にそのようなもの――「ようなもの」ではあっても「もの」そのものではないもの。

わたしが言語にうんざりしている理由はたくさんあるが、そのひとつは、あたかも言語が万能であるかのように扱われているから。言語は完全な「意味」たりえない。

読者にこちらの意図した「意味」や「情報」を伝えるための文章をこさえることがわたしの従事している労働の内容だが、だからこそ日々言語が完璧たりえないことを実感する。いくら何かを伝えようとしたところで読者は自分の好きなところだけを好きなように読む。もちろんうまくいけば読者の意思や意欲を誘発することはできる(それが言語の危険な一面のひとつであることは確かだ)が、それはわたしが読者を完璧に、意のままに、操ることができるというわけではない。

わたしの言っていることは分からないだろうか。分からなくていい。わたしにもあなたの言っていることは分からない。

わたしは言語にうんざりしてしまった。お金にもうんざりしてしまった。しかしわたしはあなたの声や、ちょっとした仕草や、表情のかげり、体のふるえ、そういったものにはまだ興味があるかもしれない。むしろそういったものにしか、興味がないともいえるかもしれない。

そうはいいながら、わたしは自分の身体にもうんざりしている。どこかに出口があるわけではない。明日の自分が起きられるかどうかわからないとおもいながら今夜のわたしは寝るのだから。

書かないと消える

「何かをずっと書き続けていないとわたしは消えてしまうのではないか」という強迫観念とずっと闘っています。

人生の序盤(正確にいうとインターネットの片隅で何かを発信しはじめたとき)からその萌芽はあり、この子とはもうずいぶんと長い付き合いになるね。

「書かないと消えちゃう」にはいろいろな意味があるのだが、ざっくり分解してみるとこんな感じかな。

「わたしには書くぐらしいしかできることがない」
「ずっと何かを書き続けていないと忘れられてしまう」
「書く以外に自分の存在を証明するものがない」

並べてみるとなんとも痛々しい。でも、わたしが生き延びるためには書くことが必要だったし、それをぶちまける場としてのインターネットが必要だった。

だって誰もわたしを分かってくれなかったもの。わたしは透明人間だった、それかよくてバイ菌だった。不思議なもので、普段は透明だったり菌だったりするのに、攻撃するときは対象としてしっかり視認され捉えられるのだ。行方不明の上履き、びりびりに裂かれた音楽の教科書、財布からなくなっていたお金。

だからわたしには書くことしかなかった。「書かないと消えちゃう」は歳を重ねるにつれわたしのなかで大きくなり、高校生のときはmixiで知り合った得体の知れぬお姉さんとサイゼリヤにいったり、同じく得体の知れぬお兄さんにまんだらけで18禁のBL同人誌を買ってもらったりしていた。

そんなことができたのもわたしが「書いていた」からだ。「わたしはここにいる」と、学校でも家でも半透明の存在になりかけていたわたしが唯一自分であることが証明できたのは、「書いている」ときだった。

しかし、フルタイムで労働をはじめ、心身のバランスを崩し、書くことがままならなかったときでも、わたしは生きていた。でも、このままだと自分がいなくなる、と体のどこにあるのかもわからなければ名前も機能も定かではない部位が喚き散らしていた。

「おまえはこのままだと消えてしまう!」

結果的にわたしは消えなかった(とおもう)からよかったけれど、ギリギリのところだった。踏みとどまれたのは、わたしが何を書こうが、書くことをやめようが、存在していることを認めてくれた友人たちのおかげだとおもう。

それは一つの転機だった。

わたしは、読み書きをする機会のない人や、読み書きをすることができない人が、「生きている」という現実、何も発信できなくても、何も記録に残せなくても、「そこにいる」という現実とようやく、出会えた気がする。

そして気付いた。

これまでわたしは、ひょっとして、ものすごく不遜で傲慢で差別的な価値観に己を縛りつけていたのではないか?

これは日記に書くにしては少し大がかりなテーマだったかもしれないね。分かっているのになんでこんなことわざわざ書いたかっていうと、わたしは今まさに「書かないと消えちゃう」に押しつぶされそうになっていたから。「書かないと消えちゃう」に負けないために、「書かないと消えちゃう」について書いた。

書かなくても消えないし、語らなくても、描かなくても、写らなくても、わたしは消えないよ。わたしへ。

愛すべき鈍感な女たちへ(呪いの手紙)

自分のためにも他人のためにもいい子ぶるのはもうやめようと思ったのに、気が付いたらまたわたしはいい子ぶっていて思考回路はショート寸前、というよりショートした結果がこの呪いの手紙かもしれない。

呪いの手紙といってもこれは特定個人に宛てて書かれたものではなく、不特定多数の「愛すべき鈍感な女たち」へ捧げる恋文である。これを読んで「自分が責められているように感じる」と思う人もいるかもしれないが、そのとおり、わたしは「あなた」を責めている。

さすがにここまで脅しておけばまっとうな読者は引き返すだろうからあとは存分に好きなことを書く。脅迫ついでに最悪な断りを入れておくとわたしは拒絶も反論も受け入れるつもりはない。正確にいうと、拒絶や反論が存在するのは当然だし個人的にやってくれる分にはまったく構わないのだが、それがわたしに向けられた瞬間わたしは姿を消す。なのでわたしを消したい人には今が絶好のチャンスともいえる。どうかお好きなように誹謗中傷を書き込んでくれて構わない。

さて、唐突に本題へ入るけれどわたしは「鈍感な女」がたいそう憎い。何に対して鈍感な女かというと、たとえば「ジェンダー」の問題、たとえば「オタク」であるという問題、「消費」することの問題、この国の「政治」や「社会」に関する問題、「女」と「女」の間にも厳然と存在する「格差」の問題、そういったものすべてに鈍感な女はもちろん、どれかひとつには関心があってもその他の問題には無関心な女、彼女たちもこの呪いの手紙――または恋文の宛先となりうる。

「女であることでそんな不利益をこむったことがない?」「自分が女であることに違和感を覚えたことも不満も感じたこともない?」
へえ、良かったね。あなたたちはそのままぬくぬくと「女であるというだけで差別されない恵まれた環境」で生きていけたらいいね。環境が恵まれているのか、あなた方の目が節穴なのか、さすがのわたしもそこまでは察しかねるけど。セクハラのパワハラも受けたことがなく、それに対応しようとしたこともなく、「自分は女だけど人間扱いされたことしかないから分からない」、そういうことを臆面もなく口にしてしまう「愛すべき鈍感な女たち」。あなた方がわたしのような苦しみを味わったことがないのは幸いだとおもってるよ。あなたたちはきっと「女と女」という女同士の恋愛や性愛を覆い隠しかねない危険な概念にも違和感なく溶け込めてるんだろうね。さすがです。こっちには来ないで。

「オタクをしてて何が悪い?」「推しが国の行事に関わるのは光栄なこと?」
ううん、何にも悪くないよ。わたしがここで想定しているのはジャニーズ事務所のオタクのことだけど、しいて言うなら「あなたのおつむが悪い」かもしれないことを責めてるかな。ヒトラーが始めて今もなお連綿と続ているアホみたいな聖火リレーの一員に「推し」が選ばれてそんなにうれしいの? 自分の好きなアイドルが神様でもなければ人間でもない差別された「象徴」と並んで歌ってるのみて本当に「光栄」だと思ったの? 良かったね。あなた方は「おつむが悪い」というより、この国の立派な「国民」をやっているだけだね。失礼しました。

「推しにお金をかけるのが幸せ!」「ガチャで推しが出るまで回し続ける!」「現場には有り金はたいて行けるだけ行きまくる!」
すごいね、ド根性だね。消費は楽しいね。同じ対象に同じようにお金をかけた相手と繋がるって現実の他にはない得難い関係性だよね。推しに対する関係とともに、オタク仲間との関係も大切にしたくなっちゃうよね。でも、どれだけお金をかけられるか、どれだけ現場に行けるかは人によって違うよ。正規雇用の人もいれば非正規雇用も人もいれば普段は無職だけど風俗でどかどかお金を稼いでコンサートには全部行くみたいな人もいる。それに自分の好きな対象が何かの仕事するとき、それこそ天皇と歌ったりゼクシィとコラボして婚姻届のデザインにされたり、そういう「推しの仕事を推せない」状況もあるよね。それでもあなた方は同じように「消費行動」を続けるの? まあ続けてもいいとおもう。消費を通じて得られる関係性にしか縋るものがないんだよね。きっと。わたしはそういうのやめたからちょっと羨ましいよ、あなた方鈍感なオタク女たちが。

フェミニストの活動家さんなんですか?」「めんどくさっくて実は選挙行ったことなくて……」「政治の話詳しいですよね!」
うっせえな! 詳しいもクソもあるか! 生き残るために必要な知識を仕入れとるだけじゃ! そんなもん知らずとも今後ものうのうと生きていられるというならどうか死ぬまでのうのうと生きていくがいい。給付金をありがたく受け取り、そのお金で自己投資をし、お国の都合の良いように操作された情報があふれるインターネットで、おしゃれなカフェの写真をあげる、まあいいんじゃないですか。結構なことだろう。わたしはあなた方のことは嫌いだけど。

あーあ、またやってしまった。憎しみの連鎖に加担してしまったね。でも本当はこれは恋文にしたかったんの、女と女を分断させたいわけじゃないの。

タイトルは呪いの手紙にしちゃったけど、「いろいろな矛盾を抱えながらも、その矛盾が生じさせた原因と向き合ってさ、お互いバチバチにやりあって一緒に”女”を、”オタク”を、やったりやめたりして"生活"とやらに向き合っていこうよ」という愛をそこかしこに散りばめたつもりなの。

でもきっと届かないとおもう。今まで同じようなこと散々言ってきたもん。学校の教室でも、論文でも、友達の本でも、自分のブログでも、Twitterでも。いや、待てよ。もしかしたら一人か二人かくらいには届くかもしれない。もしこの手紙を受け取って感動し、心からわたしと話したいと願う人がいたら、わたしは涙を流して「まずは交換日記から……」と歳不相応な「お友達になりたい」アピールをするだろう。

言っていることに全くまとまりがないのは分かっている。何しろ強めの眠り薬を倍量飲んだあとで勢いで書いているので、たぶんそこかしこで議論が破綻している。それにほんとうは「愛すべき鈍感な女たち」を呪うのではなく、そんな卑屈なポーズをとることなく、「一緒に考えたいんだよ」というストレートな恋文を投函するべきだった。わからない。でもそれじゃあ彼女たちには届かなったかもしれないような気もする。そうはいってもこの手紙だって誰にもどこにも届かないかもしれないね。

わたしは今とても具合が悪い。具合が悪い上に、大したことはない小さな会社だが、その会社の命運も両肩にのしかかっている状況である。毎月売り上げをみては消化器官がねじりあげられているような心地がする。人を切り、シフト減らす交渉をし、頭を下げる。

ああ、結局ひとりよがりな愚痴で終わってしまったね。生活は難しい。ほんとうに難しい。生活をするたびに年々許せないものが増えていく。のうのうと生きている鈍感な女たちがそのままのうのうと幸せな日々を送ることを祈っているよ。嫌いなわけじゃない、ただちょっと憎たらしいだけ。「愛すべき鈍感な女たち」が。

説明しがたい具合の悪さ

具合が悪い。昨日は寝る前に服用する薬を間違えてしまったせいか眠りがハチャメチャで、現実と悪夢を混同し何度も目が覚めた。冷や汗をかいていた。

どうしてそんなトンチンカンな夢を現実だとおもったのか自分でも笑ってしまうのだが、悪夢のひとつは二宮和也というアイドルにめったざしにされるという内容だった。しかも(わたしの悪夢に出てきた)二宮和也はその様子を嬉々としてインスタグラムに投稿するのである。

たぶん寝る前に居間で家族がみていた嵐というアイドルグループの冠番組をちらりと見てしまったからだ。二宮和也という男は、眼鏡をかけたお笑い芸人の男に「(あんたは)ブスだから(ジャニーズには)なれないよ」と言ってくふくふ笑っていた。相変わらずだとわたしはおもった。いや、二宮和也がテレビでほんとうにそんなことを言っていたのかも定かではない。それさえ悪夢の一部だった可能性もある。

ほとんど眠れなかったが、ほとんど寝ていなかったからこそ朝目が冴えていて、会社に行くには行った。

けれどもとにかく眠かった。それに下腹部がうずくように痛かった。何も食べたいとおもうものがなくて惰性で通い慣れたうどん屋に入ったが、三分の一くらい食べたところで限界がきた。店には申し訳なくおもったがいつも通りに代金を払って帰ってきた。

具合が悪い。昨日も具合が悪かったし、一昨日も具合が悪かったような気がするけれど、あまり覚えていないだけで仕事はしているのだから、そんなに具合は悪くないのかもしれない。

こういうことを他人に説明するのはとても難しいとかんじる。

「うつで病院に通っています」といえば多くのひとは思考を停止して、「かわいそうに」という眼差しを向けてくれるのかもしれない。「生まれつき消化器官が弱いがん家系なのです」といえば少し驚きはするけれど、「定期的に通院はしているの?」と同情に満ちた言葉をかけてくれるのかもしれない。

でも、わたしにはそういう説明の仕方はしっくりこないし、そういう反応をされるのも面倒くさい。

わたしはわたしなりに楽しく日々を送っているとおもうときもあるし、「かわいそう」だと勝手に決めつけられるのも釈然としないし、「おまえよりもっと大変なひともいる」と叱られるのも不本意だ(だいたいそういう説教をしてくる輩はわたしよりよっぽど「大変」じゃない)。

なんかもうやんなっちゃったな。と感じてわたしはいつも説明を諦めてしまう。「大丈夫?」と聞かれたら「はい、大丈夫です」と答えてしまう。

全然だいじょうぶじゃない。具合が悪い。でもわたしにはわたしを生かす責任がまだありそうだし、今日は爪をかわいく塗りかえてご機嫌なのだ。ほっといてくれ。

怒る言葉がない

仕事で人を怒らなければならない立場になってはじめて、自分は人を怒るのが苦手なのだと気がついた。

そして、それはわたしが「女」と見なされる存在であることと無関係ではないのかもしれない。

そもそも、わたしには人を怒ったり叱ったり注意したりする語彙が絶望的になかった。「お願い」や「相談」はかろうじてできたとしても、「指示」や「注意」をするためのチャンネルがない。

「やってくれたら嬉しいなあ」と笑顔でお願いすることはできるが、「やってください」と強い口調で言い切ることは難しい。

わたしには怒るための言葉がないのである。その他の語彙に比べて、圧倒的に少ない。たぶんそれは今までの人生のおいて誰かに服従していた時間がもっとも長かったせいだろう。

当時は憧れだと感じていたが今思えば「精神的支配」に他ならなかった幾人かの教師との関係や、「自分の言うことを聞かないおまえには1ミリの価値もないぞ」と、自分の考えを理解する賢い女と付き合いたいとおもっていた元恋人。そして、「自分ができなかったことをすべて実現する息子がほしかったけど、まあ女でも俺の子どもなら賢いだろ」とねじれた愛情を捧げてくれた父。

これらはわたしの個人的な体験に基づくものだし、わたしと近しいジェンダーセクシュアリティの人間のすべてが、「怒る語彙がない」と感じているわけではないとおもう、でもわたしは、この無力感が「自分が社会において女としてみなされる存在である」こととまったく無関係であるともおもえない。

わたしが怒るとき(怒ろうと試みているとき)、怒っているわたしの台詞を他人事のように冷静になって聞いてみると、それはまるで父や元恋人がわたしに何かを言い聞かせるときの口調とそっくりだった。

そのわたしを、わたしに怒られている年上の男の部下は、にやにや薄ら笑いを浮かべて見ている。この胸くそわるさを一体なんと形容したらいいのだろう。

たすけてくれ

つらいなあ、しんどいなあとおもうことがあっても、具体的に何をどうすれば現状が改善されるのか考える体力もないので、ただただうめくことしかできない。「ああ」とか「うう」とか情けないうなり声を上げながら、衣服を脱ぎ、すぐにまた別の衣服を身につけ、べたべたした液体を顔にこすりつけて化粧を落とし、食べものを口に押し込み、ぼさぼさになった繊維の束で歯を磨き、布団を敷いてからだを横たえる。職場が変わってからちょうど一週間。そのすべてを漏れなくできた日の方がすくなかった気がする。

何もなくとも春はつらいものなのに、ことしは転職をした。どうりでしんどいわけだとおもうものの、去年の春も3年前の春も5年前の春もわたしは居所を変えていた。にもかかわらず過去さまざまにつらかったはずの春の記憶があまり残っていないのは、おもいだしたくもないことばかりあったせいだろう。わたしの頭もなかなか都合よくできているものだ。ことしの春のくるしさも、いつかは忘れられるのかもしれない。

とはいえ、その「いつか」がいつやってくるのかいまのわたしには知りようもないし、そもそも本当にやってくるのかどうかさえ定かではないのだ。とにかくわたしはいまがつらい。いまつらいひとに向かって、「いつかはつらくなくなるよ」と言ったところで何の慰めにもならないではないか。数行前のじぶんにケチをつけていてもしょうがないのだが、つらいもんはつらいんだクソが。

人と馴染めないのがつらい。新しい仕事を覚えられなくてつらい。時間外労働が、休日出勤がつらい。ともだちと会えなくてつらい。そもそもともだちがいなくてつらい。そんなつらさは織り込みずみで転職を決めたんじゃないのかと言われれば、もちろんそのとおりである(ともだちがいないつらさは人生の序盤から顕在化していたものだし)。希望していた業界だし、なにぶん飽き性で落ち着きのないわたしには打ってつけの仕事ではないかとおもっている。おもってはいるけれど、そんなこととは関係なしにつらいものはつらい。しんどいものはしんどい。じぶんの選択がほんとうに合っていたのか、もっと他に選ぶべき道があったんじゃないか。考え始めたらキリがないのはわかっている。この選択に事後的な意味づけを与えてじぶんを納得させられるのはじぶんだけだということも承知している。

でも、いまくるしい。いまがつらい。わたしをいまから連れ出してくれるひとなら、わたしをいまから連れ出してくれるものなら、なんだっていい。とにかくわたしを楽にしてほしい。たすけてくれとは言わない。だからせめてしんどい誰かといっしょにいたい。わたしのしんどさと別個のしんどさにとらわれているひとが、ただ隣にいてくれるだけでいい。わたしのしんどいとあなたのしんどいはきっと違う。でもそれでいい。だからここにいてほしい。うそだ。そんなのはぜんぶ強がりで、なんでもいいから、誰でもいいから、死神でも悪魔でもいいから、わたしをたすけてほしい。