たすけてくれ

つらいなあ、しんどいなあとおもうことがあっても、具体的に何をどうすれば現状が改善されるのか考える体力もないので、ただただうめくことしかできない。「ああ」とか「うう」とか情けないうなり声を上げながら、衣服を脱ぎ、すぐにまた別の衣服を身につけ、べたべたした液体を顔にこすりつけて化粧を落とし、食べものを口に押し込み、ぼさぼさになった繊維の束で歯を磨き、布団を敷いてからだを横たえる。職場が変わってからちょうど一週間。そのすべてを漏れなくできた日の方がすくなかった気がする。

何もなくとも春はつらいものなのに、ことしは転職をした。どうりでしんどいわけだとおもうものの、去年の春も3年前の春も5年前の春もわたしは居所を変えていた。にもかかわらず過去さまざまにつらかったはずの春の記憶があまり残っていないのは、おもいだしたくもないことばかりあったせいだろう。わたしの頭もなかなか都合よくできているものだ。ことしの春のくるしさも、いつかは忘れられるのかもしれない。

とはいえ、その「いつか」がいつやってくるのかいまのわたしには知りようもないし、そもそも本当にやってくるのかどうかさえ定かではないのだ。とにかくわたしはいまがつらい。いまつらいひとに向かって、「いつかはつらくなくなるよ」と言ったところで何の慰めにもならないではないか。数行前のじぶんにケチをつけていてもしょうがないのだが、つらいもんはつらいんだクソが。

人と馴染めないのがつらい。新しい仕事を覚えられなくてつらい。時間外労働が、休日出勤がつらい。ともだちと会えなくてつらい。そもそもともだちがいなくてつらい。そんなつらさは織り込みずみで転職を決めたんじゃないのかと言われれば、もちろんそのとおりである(ともだちがいないつらさは人生の序盤から顕在化していたものだし)。希望していた業界だし、なにぶん飽き性で落ち着きのないわたしには打ってつけの仕事ではないかとおもっている。おもってはいるけれど、そんなこととは関係なしにつらいものはつらい。しんどいものはしんどい。じぶんの選択がほんとうに合っていたのか、もっと他に選ぶべき道があったんじゃないか。考え始めたらキリがないのはわかっている。この選択に事後的な意味づけを与えてじぶんを納得させられるのはじぶんだけだということも承知している。

でも、いまくるしい。いまがつらい。わたしをいまから連れ出してくれるひとなら、わたしをいまから連れ出してくれるものなら、なんだっていい。とにかくわたしを楽にしてほしい。たすけてくれとは言わない。だからせめてしんどい誰かといっしょにいたい。わたしのしんどさと別個のしんどさにとらわれているひとが、ただ隣にいてくれるだけでいい。わたしのしんどいとあなたのしんどいはきっと違う。でもそれでいい。だからここにいてほしい。うそだ。そんなのはぜんぶ強がりで、なんでもいいから、誰でもいいから、死神でも悪魔でもいいから、わたしをたすけてほしい。